アニーの指輪

この楽曲の発表にとても驚いたし、動揺した。
FESの中で『グラジオール・サーガ』全23編は完結した。そう思っていたから。

久しぶりの明るいバラード。『EUPHORIA』以来だろうか。
歌詞も明るく抒情的。光があり、希望を持って前を向いている印象。
こういう歌詞はメジャーデビュー以降に出てくるようになったけれど、私は嬉しく思う。
あの孤高なるFESが、こちらに対して心を開いてくれているような気がするから。

『グラジオール・サーガ』の手がかりとして聖書を通し、この詩を読み解いていきたい。
ただし、キリスト教には多数の宗派があり、聖書の解釈もまた人によって異なるもの。
故にここに書いたことを過信しないで欲しい。

Aメロ。
一見、叙情的な風景を語っているようだけれど、
というと『創世記』1章5節から後に繰り返し登場する一文が思い当たる。
夕があり、朝があった。
There was evening and there was morning,

これは、神がこの世を創った6日間で、日が変わる時に使われている表現。
は神が創造したものであり、毎日が繰り返される定め
この後4度繰り返されるは、このことを表しているように思える。

Bメロ。
忘却によって苦しみも悲しみも乗り越えられる強さを持てる。」
忘却という一般的にはネガティブな言葉を、ポジティブに捉えている。
聖書でも、一般的な感覚のとおり、大体ネガティブな文脈で使われる。
あなたが救いの神を忘れてあなたの力の岩を覚えていなかったからだ。
For you have forgotten the God of your salvation, and have not remembered the rock of your strength.

という『イザヤ書』17章10節のように、神に背くことを戒めるような形で。
これは『グラジオール・サーガ』独自のものなのかもしれない。

サビ。
は『創世記』で神が創ったものであり、神そのものや神の行いも指す。
幾重にも無数に分かれるというのは、神の祝福が世界中に広がるイメージだろうか。
聖書でこういう表現が書いている箇所は思い当たらない。

従者は普通に考えれば、神を信じ教えに従う人々。
大地は神が最初に創ったもの。
十字の祈りは、十字架のしるしだろうか。いわゆる「アーメン」と唱える祈り。
十字のしるし、つまり神への信仰を裏切る。すなわち神への冒涜

断ち切れない罪といえば、『創世記』でアダムが神の教えを破って背負った原罪。
神殿の幕が開かれるから連想されるのは、イエスが息絶えた時に幕が裂けた出来事。
イエスが全ての人の罪、原罪を背負って死した直後には、地震が起き、死者が蘇る。
でも邪悪なる者の登場は語られてない。
『グラジオール・サーガ』に照らし合わせれば“邪心王”が思いつくけれど。
未来や過去が“時の流れ”という意味なら、やはり“神の定め”ということ。
それを再編する者がいるとすれば邪悪なる者と言える。
誰も知らないというのがその者のことだとしたら、それは邪心王には当てはまらない。
文脈からすると世界の従者裏切り者=邪悪なる者となるのではないか。

2番Aメロ。
“司祭”とは階級の一つで、いわゆる神父と呼ばれるもののこと。
それに“大”をつける表現はあまり見ないし、司祭が預言を授かったというのもあまり聞かない。
そのかわり、大きな役割を担う階級として“大祭司”が存在する。
大祭司は階級の一つでもあり、特別な意味がある場合には“イエス”を指す。
もし大司祭が大祭司のことだとしたら、それが授かるのは単なる預言ではない。
神の子が神々から預言授かったという強力な意味を持つ。
神々、というのが気になるけれど。キリスト教は唯一神だから。
『グラジオール・サーガ』では神が複数いるのだろうか。

Bメロ。
1番では分かりやすい内容だったのに対し、こちらは難解。
盲信は根拠もなくただ過信すること。良い行いではないはず。
奇跡は神によって起こされるもの。
宇宙が“神が創造した世界”だとするなら、宇宙を騙すとは“神の御業が神を騙す”ということになる。
後でこの推測を詳しく述べるけれど、
これは神に匹敵する力を持った者の存在を示し、その者を信じるということであるように思える。

心の痛み生命の証だというのは1番と同じ感覚。
感情的な表現で、ネガティブなものをポジティブに捉えている。

サビ。
は、神の教えを破り善悪の知識の木の実を食べたアダムに与えられた因果。これが原罪。
原罪はイエスの契約の血によって償われるといわれている。
けれど現実には、無慈悲にも、誰もがという事象収束する。
とすれば契約の血は過ちに違いないし、あらゆる力でおうとするのも頷ける。

欲望という言葉は、「霊肉二元論」で肉に関連付けられている。
「霊肉二元論」は肉体(物理的な現世)の願うままに従うことと、心(精神世界)の願いに従うことを対極とする概念。
『ガラテヤ人への手紙』5章24節にはこうある。
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
Those who belong to Christ have crucified the flesh with its passions and lusts.

聖書は常に、肉への欲を捨て霊に生きることを説いている。

欲望について『ヤコブの手紙』1章15節にはこう記されている。
欲がはらむと罪を生み、罪が熟すと死を生みます。
Then the lust, when it has conceived, bears sin; and the sin, when it is full grown, brings forth death.


アダムは善悪の知識の木の実を食べたいという欲望はらみ、神に背くという罪を生み、楽園を追われた。
契約の血を信じるなら、新たな楽園へ導かれるのかもしれない。
契約の血過ちならば楽園を望む由もない。死から逃れられない。
そんな明日しかないのなら、を信じる理由はもはや無いだろう。

は前述の通り、神そのものを指す。
それでは、この神に背いた者がび込もうとするとは。

Dメロ。
聖書では偶然は存在せず全て神による必然
全ては神の計画の中にあり、故に神は全ての時を把握しているはず。
けれど見えない明日があるならば、それは神も及ばぬ領域。

それを司り、時を再編する者こそが、邪悪なる者、神に匹敵する新たななのではないか。


1番も2番も、Aメロで神による定めを語り、Bメロでネガティブな概念をポジティブな感情で捉え、サビで神に反旗を翻している。
そしてそのサビを、神々しいほど美しい長調に乗せていることに格別の意志を感じる。

インディーズの頃の詩は、神の物語をただ語っている、という印象だった。
救われない展開もあるけれど、それに対して良いとか悪いとか、意思を表すことはなかった。
これまでにも神に反抗するニュアンスの詩はあったものの、ここまで全体で背くのは初めてだろう。
『グラジオール・サーガ』にはこのような、神に背く物語があるのだろうか。
だとしたら、きっとこれが一番最後の物語なのだろう。
見えない明日と書かれているなら、その続きが存在してはいけないことになるのだから。

あるいは。これはあくまで推測だけれど。
『グラジオール・サーガ』が神にまつわる物語だとするなら、
この詩で表された神に背く意志は、『グラジオール・サーガ』に背くことを意味するのではないか。
FESは、『グラジオール・サーガ』を語ることをやめ、新たな光の方へ向いたのではないか。
これまでにも、神話を語るというよりFES自身の心を表しているような詩はあったけれど。
24曲目、という衝撃が拭えない。その気持ちがこの推論の要因でもある。
もしこれが正しいなら、寂しく思う。
これまでFESに対して感じてきた格好良さ、美しさの要素に“まっすぐな信仰心”のようなものがあったから。
けれどFESも人間。変化があるのも当然のこと。
変化することが、FESを纏っている彼女自身にとって良いことなら、それを止めも否定もする気はない。

タイトルについて。
タイトルにアクセサリが使われるのは『翡翠のカヴィリエーレ』以来。
「指輪」について、以前FESが書いていたブログに銀の鎖と指輪は、コキュートスへの門を開くと記されていた。
けれど今作ではコキュートスとの関連は見当たらない。
聖書との関連で「指輪」というと「ソロモンの指輪」が思い当たる。
「ソロモンの指輪」は神から授けられた知恵であり、天使も悪魔も使役する力があるという。
この説で考えれば「アニー」とは『グラジオール・サーガ』でソロモンに相当する王であると
仮説が立つと思ったけれど、これも歌詞との関連性が全くない。
「アニー」については今のところ推測の余地がない。
結局、「指輪」も「アニー」も全く手がかりが見出せない。
今後『グラジオール・サーガ』や聖書を読み解く中で何か気付くことがあれば、追記していこうと思う。

2018.9.30

※聖書の和訳は新改訳聖書から引用、英訳はWorld English Bibleから引用しています。